山岳地帯であるチチカカの、天に近い青い空、手を伸ばせば掴めそうな白い雲――。
「……信じられない……」
ソフィアは放心状態だった。
気が付いたら見知らぬ場所に居て、見知らぬ乙女に声をかけられ……どうやらここは、ソフィアのいた世界とは違う世界らしい。
(どうしよう、……どうやって帰るの? そもそも、帰れるの? これから、どうしたら……帰れなかったら、どうしよう……)
心に沸き上がってくるのは幾つもの不安。ソフィアは俯き、震えそうな手を握り込む。
「あ、あの……」
その傍ら、『件の見知らぬ乙女』――いぶきが、ソフィアへおずおず話しかける。その気後れした雰囲気は、別世界の人間への警戒ではなく、彼女の生来的な奥手のようだった。
「行く当てがないなら、しばらく……うちにいますか?」
「……え?」
思わぬ提案に、ソフィアは顔を上げる。射干玉の瞳と目が合うと、いぶきは恥じらうようにさっと目を逸らした。
「実は、その……私もあなたと同じ、気付いたらこのチチカカに飛ばされていて……といっても違う世界からじゃなくて、ワコクという……この世界の遠い国からなのですが……」
村の者らの好意で、空き家を貸してもらっているのだといぶきは訥々と伝えた。
「……、」
ソフィアはいぶきの提案に言葉と目線を迷わせる。
(どうして、たったいま知ったばかりの人間に、こんな……)
端から見れば、しらっと沈黙しているように見えるが――実のところは、いぶきの善意と好意にどう応じたものかと答えあぐねているだけだ。「お願いします」と飛びつくのも図々しい気がするし、遠慮したところで自分一人では行き倒れてしまうし……。
「あ、えっと……」
ソフィアの沈黙に、いぶきはおろおろと手を出そうとしたり引っ込めたりする。いぶきとしては――急に別の世界から来たのに、急にうちに来いなんて言われても不安になってしまうか、と認識していた。
「そ……そうだ。まずは村長さんにあなたのこと伝えないと。こっち……村があるので、行きましょう」
いぶきが指さす向こう側。そこには、チチカカの家々がぽつりぽつりと並んでいた。
●
別の世界から人が来た、というのにチチカカの人々がビックリ仰天することはなかった。多少は「あらまあ」と目を丸くしたが、やたらめったら好奇心でソフィアをつつき回すことはなかったし、ましてや警戒を向けられることもなかった。なんというか、彼らはとても大らかだった。
村長はソフィアの事情を聞くと、しばらくは村に滞在していいと笑顔を浮かべてくれた。
かくして、ソフィアはしばらくいぶきの家で暮らすことになる。
そこは湖畔の傍ら、葦で作られたチチカカ伝統の小屋だった。
「……お邪魔します」
そっと、ソフィアは招かれるままにいぶきの家へ足を踏み入れ――驚いた。小屋中に、楽器、楽器、楽器。ソフィア目線では和風なものも散見された。製作途中らしき楽器もあるではないか。
「ごめんなさい、ちょっとごちゃごちゃしてて……」
いぶきが苦笑し、葦で編まれた円座を差し出す。ここに座って、の意だ。
「……音楽、やってるの?」
ソフィアは感心と共に部屋を見回しながら、好意に甘えて円座に座す。いぶきははにかみつつ頷いた。
「チチカカの楽器と……私が作ったワコクの楽器です」
例えばこれはこの辺りの楽器で……といぶきが長方形の箱を取り出し、椅子のように座った。ソフィアが好奇心に目を丸くしている中、いぶきの手がその箱をリズミカルに叩き始める。大地が弾むような、軽やかでいて深い音――。
「……素敵……」
じっと、瞬きすら惜しいと言わんばかり、ソフィアは演奏を見つめる。
その眼差しから――いぶきは、ソフィアもまた『同好』であることを悟った。ならばと、彼女の緊張や不安が少しでも紛れるようにと願いを込めて、リズムを続ける。
すると、ほどなくであった。
「――……♪」
いぶきが奏でるリズムに合わせて、ソフィアがハミングしはじめる。
甘さを含んだ柔らかい歌声と、弾むリズムが調和する――それは、不器用な乙女二人の「私はこういう人間です」という自己紹介。言葉が苦手な二人の、純な想いの伝え方。
――チチカカの風が二人の音楽を乗せ、青い湖面を優しく揺らし、吹き渡っていく。
演奏が終わった時、二人は微笑みを向け合っていた。この人とは仲良くなれるかもしれない、そんな素敵な予感が心に灯っていた。
「名前。……ソフィア。……ありがとう、よろしく」
「あ……いぶきっていいます。よろしく、ソフィアさん」
いぶきはワコクで。
ソフィアは元の世界で。
それぞれ、いわゆる、『歌姫』と呼ばれる者であった。
チチカカ……もといこの世界には、ソフィアが知るような貨幣経済は誕生していない。全ては物々交換だ。
ゆえに、いぶきはチチカカで楽士として暮らしている。美しい歌と音楽を奏で、そのお礼に、食料などを分けてもらっているのだ。そこでソフィアも手伝いとして、共に歌うことに決めた。
二人の音楽は素晴らしく、あっという間にチチカカ中にその名と歌声が知れ渡った――。
「今日の演奏も、よかった」
「ええ、ソフィアさんのおかげです」
ちょうどお昼時を過ぎた頃。労働の休みをとっていた人々へ労いの歌を披露し終わり、ソフィアといぶきは湖畔沿いを歩いていた。
ソフィアは村人達が仕立ててくれた鮮やかなチチカカ伝統の服を、いぶきはワコク伝統の青い着物を身に着けている。そんな二人の目線は、どこまでも青く静かに澄んだ湖へと向けられていた。水面には、青い空が映り込んでいる。遠く、放牧されているアルパカ達の白い色が、草原上の雲のように見えた。
「……本当に、綺麗なところ……」
この世界に車やら工場やらはなく、大気を汚すモノはない。一切の汚れがない空気は、高原ということも相まってか冴え冴えと清らかで――とても『純』だ、とソフィアは感じた。吹き抜けていくひんやりとした風に、白菫色の髪がなびく。
純なのは世界だけではない。人々もまた、一日一日を懸命に生きて、出会う出来事にとても素直で。彼らはソフィア達の音楽に、そのままの心を真っ直ぐに向けてくれる。魂で聞き、全身で喜び、感情を浸して、共に踊り、共に奏で、共に音を楽しんでくれる。とても……素敵な人達であった。
「あの、ソフィアさん」
いぶきの声で、ソフィアはふっと思考から戻る。いぶきは彼方の空を見やりながら、言葉を続けた。
「もし……、もしですよ? このまま、帰ることが難しかったら……私達は、あなたを共に生きる隣人として歓迎しますからね」
いぶきは、ソフィアの「帰りたい」という気持ちはもちろん尊重している。一方で、彼女が元の世界に戻れそうな手がかりは何もない。最悪の場合……このまま帰れない可能性だって、ゼロではないのだ。無論そうなって欲しくはないが、もしそうなってしまったら、ソフィアが「自分の居場所がない」と苦しまずに済むように――いぶきはそう言ったのだ。
「……、」
ソフィアは瞳を揺らした。いぶきの意図を汲み取った上で、心によぎるのは短いながらも温かく充実したチチカカでの日々。誰も彼もが見ず知らずの自分にこんなにも良くしてくれて……特にいぶきに対して、ソフィアは友情を感じていた。そんな優しい彼らに対して「帰りたいから帰る」と一方的に別れを突き付けるのは、なんだか不誠実な気がした。何の恩も返せていないのに。
けれど、だ。――目を閉じればいつでも鮮明に思い出せる、元の世界の、『仲間達』と夢を目指して駆ける日々。苦しいことも大変なこともたくさんあるけれど……でも、全ての時間が愛おしくて、大切で、手放したく、ない。夢を、諦めたく、ない。
(――そうだ、私は……帰りたい、私の世界に、私の日々に)
目を閉じ、開く。いぶきへと向き直り、ソフィアは凛然として告げた。
「ありがとう、いぶき。たくさん気遣ってくれて。……それでも、私……リンやアメリアに、皆に、何も言ってないままだから……きっと心配されてる。……ちゃんと帰らなきゃ」
言葉に確かな決意を乗せて。――その真っ直ぐな想いに、いぶきは微笑みを返した。
「分かりました。なら、ソフィアさんが無事に帰れるよう、私も精一杯お手伝いしますね」
「うん、……本当にありがとう、いぶき」
乙女達は笑みを向け合う。
……しかし、だ。具体的にはどうしたものか。
「あ」
いぶきがポンと手を打った。
「聞いた話なのですが、このチチカカには天界に通じるゲートがあるらしいですよ。それを使えば……もしかしたら帰れるかもしれません」
「……!」
一筋の光明に、ソフィアは微かに目を見開く。
「それ、どうやって使うの?」
「そこが問題で……『天界に通じているらしい』という伝承があるだけ、なんですよ。そのほかのことは何も分からなくて……でも、私達ならどうにかなるかもしれません」
「どういうこと?」
「少し前の話なんですが――」
いぶきは、ソフィアが現れる少し前に、この世界が大きな危機に襲われたことを話した。世界からマナが失われてゆき、あちこちで災厄が起き、神々が眠りについてしまった一件だ。
その事件の中で、歌の力で大きな奇跡をもたらしたという例がある。
いぶきとソフィア、二人の歌の力を合わせれば、天界ゲートを開く奇跡を起こせるかも……。
「あっ、でも、あくまでも私の推察ではあるので、本当にそうなるかまでは――」
「やってみよう」
真っ直ぐ、ソフィアは言った。
「少しでも可能性があるなら、私はそれに賭けたい。……いぶきは、どう?」
差し出される手。いぶきはそれを見、そして、ソフィアの眼差しを――同じく真っ直ぐ、見つめ返した。その手を取りながら。
「そうですね、やってみましょう!」
– 続く –
執筆:あまひらあすか https://x.com/SUTEKI_NPC
イラスト:藤原カムイ https://x.com/kamuif